2024.04.02

大学生活を過ごした京都で、30歳からのキャリアブレイク

25歳という少し遅めの社会人スタートから5年ほど過ぎ去った頃、会社を辞めることになった。

東京で働いていた自分が、退職後になぜ京都に戻ってきたのか。キャリアブレイクをしているときに何があったのか。キャリアブレイクをきっかけに起きた変化や気付きをまとめておきたい。

東京の引力から離れるために京都へ

京都で楽しい大学生活を過ごした後に、「東京で働く」ということを選択したのは、当時の自分にとっては自然な選択だった。なぜなら、「20代のうちにビジネスマンとして修行を積むなら東京が最適」という感覚があったからだ。

東京では同じ会社に5年ほど務めた。けれど、30歳の誕生日を機に、「これからの方向性をゼロベースで見直したい」という欲求に抗えなくなった。そこから2ヶ月後、会社を辞める選択をすることになる。

会社を辞めた時は、「京都に拠点を移す」ということを決断できていたわけではなかった。「若いうちに関東から離れてしまうと、これまで東京で築き上げてきたキャリアが崩れてしまうのでは?」という恐れがあったからだ。「たまに京都に行くから、楽しいのではないか?」と感じることもあり、選択肢にはあったもののすぐには移住を踏み切れなかった。

しかし、最終出社を終えて、「単純にリフレッシュしたい」という気持ちに加え「今後の人生を模索する上で、京都が自分にとって適しているか?」を確認する意味も込めて、2週間ほど京都に滞在。結果的に「京都に拠点を移す」ことを決めた。

自分の心に目を向けた時、「感性を大切にしたい」「創造的でありたい」という願いを感じ、「京都で時間を過ごす時が、最も感性を大切にして、創造的なモードになれる」という確信があったからだ。

鴨川の近くを歩いて、喫茶店に行って本を読む。京都で大学生をしていたときは、当たり前のようにそんな生活をしていた。だけれど、社会人になった今だからこそ、創造性を養うために、そういった贅沢な時間が必要だったことに気付いた。

東京での働き方に戻れなくなる心配はありつつも、これからも続いていく長い社会人生活で、キャリアブレイクという新たなステージに胸が高鳴っていた。

コーヒーを読みながら本を読むだけでアイデアが溢れてくる

会社の肩書きに縛られず接してくれる仲間のありがたさ

いざ拠点を移してしまえば、とにかく京都での生活は楽しいものになった。

なにせ、しばらくは失業保険があるため、お金の心配はそこまでせずに、生活のリズムを整えることに集中することができた。今後の人生を模索するためには、まずは心と生活を整えることが重要だった。

鴨川沿いを散歩したり、友人との時間を過ごしたり、さらには自炊や筋トレもした。京都で仲良くしていた友人は、柔軟な働き方をしており、平日一緒に時間を過ごすことができたことも、当時の自分にとって大きかった。社会人になると、途切れることなく平日は仕事の予定が入っているため、「些細な事も含めて、自分自身の欲求を満たすために行動する」を忘れかけてしまっていたからだ。

「年収1000万円を目指す!」とか「高級な服を買って着る」とかのような幸せとは種類が全く異なる、「日常にあるささやかな幸せ」がそこにはあった。

鴨川沿いを歩くと、いつも元気がもらえる

関東でそのまま生活していれば、「無職として過ごす」ことに引け目を感じていたかもしれない。しかし、私の周りにいる京都の人たちには、そもそも「フルタイム正社員で働くといった生活をしている人」があまりいなかったため、無職であることの引け目は特に感じることがなかった。重要なのは、「会社で働いてようが、働いていまいが、変わらない態度で接してくれる仲間がいるかどうか」だということに気付くことなのかもしれない。

会社員時代から、「〇〇で働いておりまして……」といった自己紹介は、ほとんどしていなかった。肩書きではなく、価値観や人柄をベースとしたやりとりが心地よかった。そういった意味で、京都生活には馴染みやすく、順調にキャリアブレイク生活をスタートさせることができた。

衝動のままに行動する

生活が整ってきたら、とにかく衝動のままに行動していった。今まで読みたかった本をひたすら読む。気になっていたアニメをひたすら見る。良い感じの自転車を買って、京都市から宇治市まで、友人とサイクリングもした。

ほかにも、移住体験をブログとしてまとめてみたり、知り合いの社長から依頼を受けて、とある高校の修学旅行を一部プロデュースしたり。朝8時に懐石料理を食べに行くという謎の会の幹事など、よく分からないことも含めて心が動いたことに挑戦してみた。

京都移住計画を運営するツナグムが企画した、京都北部京都南丹を巡るプログラムにも参加させてもらった。このような非日常なプログラムは、参加者同士も仲良くなりやすい。その後の人生を支えてくれる友人や仲間といえる人たちとも出会えて、有意義な時間になった。

とりあえず形にし、その後も試行錯誤を続ける

今でも、「無職というのは、きわめて可能性にひらかれた状態」だと思っていて、そういった意味では、とても魅力的な状態だと思う。なぜなら、多くの場合で無職は時間が大量にあると感じるし、年齢などの制約がある職業を除いては、「新しい職業に挑戦する」という選択も取りやすい状態だからだ。

ただ、金銭的な制約が存在するのもたしかだ。どこかで、「可能性を可能性のままにせず、現実にしていくタイミング」が必要となる。私の場合は、それが失業手当の受給が終わるときだった。

そして、「フリーランスとして活動する」という選択肢を選んだ。理由としては、キャリアブレイク期間に、会社で働くという以外の選択肢に気付いたからだ。

経済的な心配はもちろんあった。でも、会社員時代の副業先や、キャリアブレイク期間も含めてのご縁がきっかけでいくつかの案件が決まり、最低限生きていけそうな目途もった。「自分の力でどこまでやっていけるか試していこう」と思えたのだ。

さらに、キャリアブレイク期間のご縁が、独立した後のケースに実を結ぶこともあった。キャリアブレイク期間に出会った人たちと関係を深める中で、いくつかのプロジェクトを協働ですることになった。

キャリアブレイクの効果というのは、遅れてやってくることもある。「短期的に効果があるかどうかを気にしすぎず、プロセスとして楽しむ」というスタンスが大事になってくるのかもしれない。

キャリアの探求は続くよ、どこまでも

私にとってキャリアブレイクは、重要な出会いや示唆をくれる、パワフルな影響があった。その一方で、キャリアブレイク期間だけで、その後のキャリアが全て決まるわけではない。その後でも、人生やキャリアの探求は続いていく。

キャリアブレイクは、良いことばかりではない。失業手当を受け取るまでは貯金を切り崩して生活していたし、将来が見えないことに対して、不安になることもあった。知人友人たちが、東京や海外でバリバリ活躍していているのをSNSで見てしまい、自分の状況と比較して落ち込んでしまうこともあった。

ただ、そういった葛藤を乗り越えた先に、「自分にとっての納得のいく生き方」が待っているのだと思う。

全員に勧められるものでもないが、立ち止まることが必要な人にとって、キャリアブレイクという選択肢が目にとまると良いな、と心から思う。

執筆:松井 貴宏
編集:つじのゆい

松井 貴宏

広島生まれ。京都での大学生活を経て、都内のITベンチャー企業でマーケターとして働く。30歳を機に会社を退職し、京都でキャリアブレイク生活を送った後、フリーランスとして独立。企業のマーケティング支援に加え、経営者・研究者・アーティストといった多様な人たちと協働した企画づくりを行う。

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