募集終了2015.07.23

人と地域をつなぐ。懐かしい未来をつくる仕事

今回のお仕事は、「京都移住計画のメンバーとして動いてもらえるような方に来て欲しい」というお墨付きを頂いたので、僕ら移住計画の仲間にもなってくれるような人を探しています。

南丹市市役所全景

2006年に八木町、美山町、園部町、日吉町という四つの町が合併した南丹市。京都市内からのアクセスが比較的良いことも手伝ってか、田舎の暮らしをしつつ、都市部での仕事をする人も多く、暮らしと仕事のバランスのとれる生き方ができる可能性がある町。

今回募集をするのは、そんな南丹市への移住定住の促進をする仕事。廃校の小学校を活用し移住定住センターを設け、移住促進へ向けた体制を整えていくのだそう。募集や選考などを行う南丹市の職員の國府さんのお話をお伺いした。

國府さんは、ずっと地元育ちで、大学は京都市内に実家から通い、卒業後は、南丹市の前身になる町の一つ、八木町役場にて就職。水道課、教育委員会、京都府への出向、税務の仕事、と1~2年単位で目まぐるしい人事異動を経験。後に町長の秘書になり、行き先も告げられないまま南米に一ヶ月行ったり、南極もほど近い地域に一週間ほど滞在していたという。

そんな若かりし頃の武勇伝?からお話がスタート。

国府さん写真①

「当時の町長が、思いついたらすぐ行動っていうような人で、まわりの職員は、ビクビクしながらも、面白いことをやってたんですよ。普通の職員では地球の裏側まで行く機会なんて、一生ないかと思います。海外も見たら、内側も見るようになって、この町はええもんも沢山あるなと思いました。」

國府さん自身に感じる懐の広さのようなものは、相次ぐ人事異動や刺激的な経験があったからこそだと妙に納得。どんな眼差しと想いで町に関わってきたのだろう。

國府さんが生まれ育った八木町。そこで毎年8月14日に開催される花火大会。京都市内の人はもちろんのこと毎年多くの人で賑わい、人口1万人の八木町が、一時的に10万の人で溢れかえる夏の風物詩。終戦の翌年に鎮魂の意味合いで、たった3発の花火から始まったという歴史がある。

今第69回まで続いてるんかな。年を追う事に段々増えてきてね。一番多い時で、6500発とかになって、すごい人出になるんです。みんな昔から花火大会はすごいと自負があって、こういう気持ちを活かして町は大きくしていかなあかんなぁ。というのを思ってたんです」

スクリーンショット 2015-07-22 20.39.32



そんな町への思いを馳せる矢先、2006年1月1日に八木町を含む四町の合併という大きな転換期を迎えた。生まれ育った町が統合される事に、どう受け止めてたのだろう。 

僕だけじゃなくて、みんな旧町に誇り持ってるんですよ。美山の職員は美山に誇りを持ってますし、日吉は日吉といって、それぞれが旧町びいきになることも当然ありますけど、合併して一番最初に思ったのは、美山町は昔から通ってたので、自分の町になったと思ったら、すごいうれしなって(笑)、堂々と行けるというのがすごいあったんです」

合併後に配属された部署で、南丹市をどのような町にしていくのか?ということを、國府さんをはじめ数名の職員が中心になり、当時の上司の大野さんのアドバイスを下に次々と取り組んでいくことになる。

「合併して、ふわふわな町には柱がないと絶対にまとまらへんし、今だったら何でもできるから、何でもいいからひとつ出せ」という号令の下、ワークショプをして出来たのが「ものづくり」というコンセプト。

「伝統工芸のものづくりも多いし、工芸家さんもきっと多いんとちゃうか?というところから始まったんですよ。それで「ものづくりの町、南丹市」っていう広義にも捉えられるし狭義にも捉えられるものができた」

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そのコンセプトの実現に向けて、NPOの協力ものもと「マイ箸・マイ茶碗づくりプロジェクト」という自分でつくったお茶碗とお箸を使ってご飯を食べようという企画がはじまる。

NPOが各小学校とか地域に出向いて、人口35000人中、7500人までは全員体験したんですよ。マイ茶碗マイ箸というのをみんな持っててね。ただ削るだけなく工芸家が拭き漆仕上げできっちり製品となって、手元に戻ってくる」

「自分達でつくったものだから、とても大事に使うんですけど、どうしても壊れる時もある。そうすると子ども達が泣きながら、もう一回つくりたいと言ってきたりするんです」

そんな風景が約3年間も続くことで、名実ともに「ものづくりのまち」を印象づけることになった。実際、取材中にも工芸家の人たちが出入りする光景を目にしたり、挨拶を交わす場面も。役場とものづくりとの距離が近いことを感じる。

定住・企画戦略課

南丹市の新たな町としてのコンセプトづくりに関わった国府さん。ひと段落したと思ったのも束の間、「ものづくりのまち、南丹市」の企画をする役割から「市民恊働のまち、南丹市」というもう一つの町の看板を実現すべく政策を実施していくことに。

取り組んだのは、とある補助金の実施や運用。一件上限20万円の補助金をつけるという制度。初年度は12のプロジェクトを採択した一方で、落選した方達からお叱りを受けたそうだ。

「君の仕事はなんや?と。プロジェクトを落とすことなのか?プロジェクトの予算をどっかから確保してくれるのかどっちなんや?とういう話になったんです。予算があるとは言え、みんなでワークショップして、おじいちゃんおばあちゃんが皆で作ってきて、スーツ着て手なんかも震えながら書類を持ってきはってね。その人たちが一生懸命考えたものを、一辺倒の基準で落としたわけなんですよ」

自分の不甲斐なさを思い出してか、悔しそうに語る國府さん。

公務員という仕事の在り様を見つめ直し、次年度は予算を拡大することに成功する。事業の数も20から44事業と増加。結果としてこの3年間で、150以上の事業が生まれたそう。

私は事務局で、審査員は部長さんとか、外部の人もいれてやるんですけれど、ヒアリングをした事業は、「この事業はこういう事業です」「メリットはこうです」「効果はこうなんです」というのを全部説明して、事業を実施していくことをしていました」

住民の人たちの気持ちを真正面に受け止めてきたからこそ、文字通り自分のことのように嬉しそうに語ってくれた。この補助金を通じ地域のリーダーたちとつながりを持ち、彼らの活動を支援することで、地域の自治力を高めていくことには、ある一定の成果を感じていた。

朝市

「ものづくりのまち」「市民協働のまち」という南丹市の二つの看板を掲げる為の政策に関わった國府さん。移住定住の仕事に関わり始めるのは、約2年前の2013年頃。当時は今とは別の管轄に移住定住の部署があり、どちらかというと建物から入った定住促進だった中、現状を定量的に分析し、何をしていくべきかというソフト面のアクションプランを作成したという。

「別に完成形でも何でもないんです。悪いもんでも、みんな意見出し合って直していったらいい。最初にスピーディに、ポンと「こういう計画です!やります!」って柱を示していかんと、全然組織って動きださない。無茶でも「こんなもんできるか!」って言われるもんでも作る。それががぼくの一年のミッションやったんですよ」

計画を公表すると議会で質問され、市長が「定住促進のアクションプランに基づき…」と答弁するようになってくる。そのプロセスで指摘されるところは修正しながら、形をつくっていったという。その仕事の進め方や流儀に大野さん(國府さんの元上司)をどこかに感じる。

「人の見方は色々とありますけど、そういう流儀を教えてくれはった人は美山出身の人で、柱はバシッとなんですけど、進め方はちょっとソフトに、というやり方が一応流儀かなぁと思ってます。定住促進センターも実は、何にもない状態からバシッとやってるだけなんです」

今回の募集している定住促進のセンター設立のお仕事。何もない状態ということを機会として捉えて一から作っていくことに挑戦できるような方が合っているのかもしれない。

高橋さんメイン写真 2

移住や定住促進についての考えも聞いた。

「疑問もあるんですよ、定住促進って、はっきり言って何なんや?移住者を呼び込むのが事業なのか?「このまま放っといてくれよ」て言う地域も実際にあるんです。けれど、たとえ12人の地域でも「よし、一矢報いてやろう」っていう地域もあるんですよ」

「そこに1人入ることは効果として、とても大きいんですよ。地域にとっては無限大の効果を与える人を入れていく、そういう風な留まり方をしていけばいいんやなぁと考え方を改めて、きっちり人選してきた人を入れてきたいと思ってるんですよ」

同席してくれていた高屋さんは、國府さんの話を、どのように受け取ったのだろう。

「私は「そんな事をやるんですか?」という、どちらかというと批判的に見る部署(財政課)にいたので、そんな深い歴史や想いがあったんや、という感じです」

どっちかというと(僕が)暴走するところが、クセとしてあるので、その性格は見抜いてくれている。あいつを野放しにしたらあかんみたいな」と國府さんも笑う。そういう良い意味でブレーキの役割を担っているのが、高屋さんなのだそう。

ランチ風景(弁当写真)

國府さんのお仕事の歴史は、そのまま町の在り方に関わる仕事だということ感じつつ、気づけば、お昼休憩の時間に。近くで別の打ち合わせをしていた京都移住コンシェルジュの二人も日頃からお世話になっている國府さんと一緒にランチができればと同席することに。

地域との関わりや移住定住に向けてのお話へ。

「結局、公務員の仕事ってね、部署部署で変わっていくんですよ。だけど地域振興にみんな来た方がいいと思うのは、地域のリーダーとかと関わっていれば、どの部署行っても最終的には自分の財産として返ってくる。「ちょっとお世話になりたいんやけど~」とお願いすれば「あ~はいはい」言うて返ってきます」

「この前も、美山のとある地域に行った時も、熱い人ばっかりでしたね。ほんとに、生の意見を戦わせるという感じのところが、すごい素敵やなぁと思って。お互いにどうやっていけばいいのか、っていう大きな感じの会話をしてまし。」と移住コンシェルジュの千葉。

実際、移住コンシェルジュが、移住検討中の方と國府さんと一緒に空き家見学に行った際にも、近所の人たちが「国府さん、国府さん、今何してるんや?」と声をかけられる様子に、地域の人たちとの信頼を感じたという。

移住コンシェルジュの二人(写真左が川渕、右手前が千葉)は、移住定住の仕事で数多くの地域を訪れながら、國府さんのような人との出会うことで、より一層とその地域に人をつなぎたいという想いが強くなっている気がする。

ランチコンシェルジュ

移住に関しての目標とかはあるのでしょうか。

「平成29年の目標値34000人を置くのには、決意的なことは勿論あったんですけど、指標がないと物事動き出さへんのですよ。さっきのアクションプランと同じ考えで結局、どっか通過点くらいで目標値を置いておくこと。先に行くまでの直近のところで、ポンと石を置いといたんですね」

通過点とはつまり、プロセスとしてどんな風な目標として置くかということ。例えば「一地域、一移住」というような考え方で、大きな目標だと誰もが目指しにくいけれど、小さく現実味のあるものにしていけるかがポイントと、移住コンシェルジュの二人も共感するところ。

南丹市に移住してきてくる人の平均は、3.75人/世帯と家族層が多く、それを元に計画を立てる。2000人を世帯換算にしたら、533世帯。それを3年間計画で考えてみると、178世帯。南丹市は行政区が180位あるので、一年間に一行政区に一世帯移住してもらったら、物理的な数字としては合ってくるんです」

国府さんと千葉

移住定住のことで、大事だと國府さんが語るのは、地域に力をつけてもらうということ。つまり地域のリーダーを増やしながら、未来のリーダーとなるような移住者をきちんと地域につないでいくことだという。

移住コンシェルジュも、そういう地域の担い手になる移住者を連れていくという想いがある一方で、やはり受け入れ側としての体制づくりも重要だということを感じている。その両輪をバランスよく回していくような潤滑油としても、移住者、地域側の情報は一括でまとまっている方が良い。

最後に、そんな潤滑油であり情報拠点にもなる移住定住センターをつくる場所や仕事について伺った。

その場所は、旧日吉町にある五ヶ荘(ごかしょう)小学校という今は廃校になった校舎。それを活用し移住定住センターを設ける予定。移住コンシェルジュの二人と共に、廃校を訪ねつつ周りの環境も見に行くことに。

小学校外観

 「こういう所に住みたいね、と言ってもらえるように、日吉に住んでいる人たちの意識も高めていったり、地域の団体も活性化していったり、人を受け入れるという経験をすることで、 地域が主体性を持ち始めていって欲しい。」と國府さんなりの拠点へのこだわりもあるそうだ。

校舎見学の図

「わしゃ何をしたらいいんや?と半年前言っていた地域の人も、移住検討の方と関わることで積極的になっていたりもします」と千葉。移住者と地域の人たちが関わると、移住するという結果につながらなくても、地域や人へ及ぼす前向きな効果はあるという。

「地域起こし協力隊は、地域にどっぶり入り、地域のリーダーを育てていき、そのリーダーがいる(つまり受け皿になるような存在がいる)地域の情報を、(今回のお仕事である)定住センター側で把握することで、移住コンシェルジュと連携して、移住者をつれていきたい」と國府さん。

その為に、 地域に出向いて要請型(地域からの問い合わせやニーズに応える)のところが最初にあり、それらの活動を通じて地域の状況を把握し信頼関係を作った上で、自由に企画提案していくような働きが求めれられているようだ。

最後に、南丹市の移住定住の仕事をするにあたっての可能性を國府さんに聞いた。

「新しいことがなんでも馴染むので、定住促進でこれを売りにしようとしていたのは、 起業の町にしたらどうや、という話は出てました。今までのテーマ性に縛られないのが、新しい町の良さやし、旧町の単位に戻ったら地域性はあるけれど、 定住センターに入ってくる人にも、そんな新しい町のコンセプトづくりをしていける可能性があります」

移住コンシェルジュから一言

何をしていくかを、考えてから走るよりも、走りながら考えるような今回のお仕事。もちろん京都移住コンシェルジュの二人と連携していくことも多い。実をいうと彼らもまた、2014年10月から右も左も分からない中、事業がスタート。

何をしていくのかを、走りながら考え、失敗したり怒られたりしながら修正して、色んな方々の支えの上に、何となくつかめてきた仕事の輪郭がある。

その仕事の輪郭を、今回募集する移住定住センターの役割を担う人に伝えていきながら、いわば「三人目」の移住コンシェルジュとして一緒にお仕事をしていきたいとも考えています。

募集終了

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