2023.03.15

まずは自分たちが楽しむことを原動力に。京都移住計画の「これまで」

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京都移住計画のWebリニューアルにあたり、「これまで」と「これから」を語る企画。前編では、任意団体だった移住計画が「居」「職」「住」の機能を持ち、どのように組織になっていったのか。後編では行政や企業との取り組みと、今後について紹介します。2本の記事を読めば、移住計画の道のりと、これから向かう先がわかるはず。

2011年に田村篤史の個人のプロジェクトから始まった京都移住計画。その後、不動産プランナーの岸本千佳さんや西喜商店の近藤貴馬さんのようにUIターンで京都に戻ってきた仲間たちがジョインし、「自分たちが住むまちを楽しくしよう」と、それぞれの興味関心ごとに紐づいたユニークな取り組みがたくさん生まれました。

その根底にあったのは「まずは自分たちが京都のことを知り、楽しむこと」。前編では京都移住計画のこれまでの時間をたどり、当時の取り組みやそこに込められた想いについて、3人にお聞きしました。

左から、近藤貴馬さん、田村篤史、岸本千佳さん

個性的なメンバーが合流して始まった京都移住計画

ーー京都移住計画は、どのように始まったのでしょうか。

田村

きっかけは、僕が東京に住んでいたときのシェアハウスの飲み会だったんです。「いつか京都に帰りたい人たち」が集うというゆるふわコミュニティ(笑)。そこで自然とそれぞれが集めてきた京都の面白い人、場所、仕事の情報をシェアしていたんですね。そこに参画していたメンバーが、「京都移住計画」と名付けてくれました。2011年の年末だったかな。

ーー東京在住の人たちのプライベートコミュニティが、どのようにして京都にいる人たちと繋がっていったんですか?

田村

その計画を始めた頃に、後に一緒に会社を立ち上げるタナカユウヤと出会っていて。彼が京都に帰ってきた人たちの受け皿になる役割をしてくれる、みたいな話になったんです。最初に紹介してくれたのが、移住計画のWebサイトを作ってくれたデザイナーのもとやん(完山祐毅さん)です。

東京を経験して、京都にUターンしてきた同世代が周りに多かったし、みんなフリーランスになりたてで。そういう人たちと面白いプロジェクトができたらいいな、みたいな話をしていたら、ちょっとずつ仲間が増えていきました。

ーー仲間が増えていく過程で、岸本さんもジョインされたんですか?

岸本

メンバーが5、6人ぐらいになってから。たしか、最初の移住茶論をやってからだったよね。

田村

そうだね。移住茶論の初回は、僕ともとやんとさやちゃん(田代紗綾さん)の3人で開催したんだけど、参加者がたった1人だったから、ただカフェでお茶しただけで終わった(笑)。

移住茶論で活動を紹介する田代さん(左)、完山さん(右)

料理が得意な田代さんが京都移住茶論のごはんを担当し、おいしい料理をふるまってきた

田村

当時は主にFacebookページを作って、京都の情報を発信していました。「面白い会社が求人募集してます」とか「こんな物件ありましたよ」とか、京都に住んでる人にしか見つけられない情報です。 今はもうサービスが終了したけど、NAVERまとめで「京都でおすすめしたい企業・5選」の記事をつくったことも。

近藤

NAVERまとめ、めっちゃ懐かしいな!

田村

要は自分たちが東京に居た時に、欲しかった情報を発信していたんです。でもそれだけではちょっと無責任だなと。というのは、僕たちも移住した後、本当に楽しく暮らせるのか、その時点ではわかっていなかった。そこでまずは、京都に移住してきている人たちに会って、話を聞くことから始めようということになり、移住茶論を始めました。

ーー近藤さんは、どのように関わりを持つようになったんですか?

近藤

僕は2015年に東京からUターンして、その頃からの付き合いですね。もともと東京で地域活性に携わるベンチャーに就職していたこともあって、移住計画のことは知ってたんですよ。だから京都に帰ったら絶対に接点を持ちたいなぁと思ってて。たしかTwitterで連絡がきて、東京で開催する移住茶論のゲストに出てくれって頼まれたような……。

田村

Twitterなら絶対ユウヤやな。彼はTwitterで知り合いを増やすタイプなんで(笑)。

近藤

僕は「京都の八百屋の後継ぎをします」って、SNSで宣誓してたから。大学まで京都に居て、東京で会社員をやって、実家の跡継ぎのためにUターンする。典型的な移住者のパターンとして、移住計画で扱いやすかったんやと思います(笑)。

田村

これからの京都を考えたときに、僕らのやってる活動に、貴馬さんの持つ「食」や「事業承継」のワードを絡めていけたら、面白くなるだろうと思っていました。

食関係の家業を継ぐという選択しをたUターン者をゲストを招いて開催した、京都移住茶論vol.30(2017年10月)に登壇する近藤さん

「居」「職」「住」の三本柱

ーーメンバーが集まってきて、事業を生み出す団体に変化するのか、それとも単純にまちを楽しむ、情報交換するコミュニティとして継続するのか。当時はどのような方向に進もうと考えられていたのでしょうか?

田村

当時から事業化していくイメージは持っていたと思います。移住計画の着想に大きく影響を与えてるのが、日本仕事百貨さんや、R不動産さんとかのWebサイトとかは良く見ていて、そういったエッセンスを取り入れた、京都のメディアをつくれたら面白いなって考えていたんです。そこで「居(居場所/コミュニティ)・職(仕事)・住(家)」の情報をワンストップで展開できるWebサイトをつくりました。

僕は人材関連のキャリアを積んでいたので「職」の部分を担当できたし、他のメンバーも自分のキャリアや得意分野を生かし合って、チームとして動いてるような状態になったらええなって。ただ「住」に関しては、適した人がいないなぁと思っていて。

ーー岸本さんは、どのように関わり始めたんですか?

岸本

田村さんとは共通の知人がいて、SNSを通じて知っていたんですよね。私も2013年頃にはこっちに帰ってくることがほぼ決まっていたので、田村さんの活動は自分ごとだった。ただ「住」の人を探してるっていう情報は表に出てるわけでもなく、田村さんの心の中にしかなかったけど(笑)。

近藤

田村さんって「一緒にやろう!」っていう感じの人とちゃうからね。気づいたら一緒に何かやってたみたいな。メンバー募集もしてないし、気づいたらみんな田村の沼にはまってる(笑)。

田村

でもきっしー、「一緒にやりましょう!」って激アツのメールくれへんかった?

岸本

送ったかもしれん(笑)。私は東京で不動産の仕事をしてた経験もあるから、私たちと同じように京都に移住する人向けの悩みや想いが理解できる。だから、田村さんと何か一緒にやれたらなと思ったんだよね。

ーー移住計画にジョインしてからは、別々の不動産会社が運営するシェアハウス3軒を巡る「京都シェアハウスツアー」や「職住一体相談会」など、ユニークな企画やイベントもされていますよね。

岸本

職住一体の相談は、田村さんが「職」で、私が「住」に関わる仕事をしていたのでできたことですね。移住者にとっては、求人と不動産って絶対に必要な情報だけど、それを一緒にやってる人は、あまりいなかったんです。変わったことを企画しようということではなく、必要とされることに取り組んでいたんだと思います。

そもそもフリーランスの集まりということもあり、自分の専門領域でも面白いことを考えたりしてる人たちだから、企画やアイデアが自然と生まれることが多かったですね。

田村

シェアハウスツアーは、移住者目線で考えた企画だよね。普通の不動産会社だと自社物件しか紹介できないけど、その間に僕らが入ることで、A・B・Cと違う会社のシェアハウスを見学できる。移住者にも、企業にも喜んでもらえるし、僕らも移住者とつながれる機会になった。

岸本

今思うと、移住計画という横串を刺す立場だからできたこと。私がいち不動産業者の立場で、他の不動産会社に声をかけられたかというと……、やっぱりそれは難しかったと思う。

田村

「移住」が、分野を横断できるキーワードだったんだよね。

ツアーでは、京都移住計画のメンバーであり京都市内のコミュニティFM放送局の局長・パーソナリティの木村博美さんによるアテンドで、市内のシェアハウスを巡った

岸本

移住茶論で移住希望者の「仕事が決まらないと家も探せない」というリアルな声を聞けたのも大きいかな。自分自身の仕事にとっても参考になることが多かった。

田村

「職」でいうと、「IT系の人材はほとんど東京に行くから採用に困ってる」という声を聞いて、京都のITの企業を集めて、東京で採用イベントを開催したこともありました。本来であれば、競合他社だけれど、一致団結したら「京都のIT企業って面白いよ」って言える。移住という横串で、企業間や分野を横断する役割を僕らが担う流れはこの頃からできつつあったかもしれないですね。

ー移住者のリアルな声を聞ける移住茶論は、大きなトピックだったようですね。特に印象に残っている回はありますか?

田村

移住者の人が自分の住んでる「京都の区自慢」の回かな。移住者の話を聞いて、参加者はどこに住みたいと思ったかを最後に投票するイベントで。自分の住んでるエリアのことを語る機会って、意外と少ないじゃないですか。

ーー地元の人じゃなくて、移住者が語るっていうのは、移住計画ならではですね。

岸本

私は嵐電を貸し切ってやった回かな。四条大宮から嵐山へ行く車内で乾杯して話をして。着いたら班に分かれて自由行動。「京都移住計画」のプレートを持って写真を撮ったよね。

近藤

僕も嵐電の回かなぁ。逆に全然人がおらんくて、企画倒れしたやつもある。移住者が体験した「本当に怖い移住話」とか(笑)。絶対面白いやん!と思ったのに、集まらんかった…。

田村

移住茶論は、義務感でやってるというより、僕らがまず面白がれるかを結構大事にしてたんですよね。楽しいから続けてるみたいな。移住茶論以外にも、メンバーの発案で始まったイベントや企画があったね。

メンバーのまいちゃん(上田麻以さん)が主宰する「京おんなのおけいこマルシェ」とコラボレーションして「くらしの箱庭」も開催したね。着付けやアクセサリーデザインなど専門知識を「お稽古」として提供するイベントなんだけど、まいちゃんが『自分の持つスキルとクリエイターのネットワークを活かして、何かやれたら』って提案してくれて始まったんだよね。

岸本

料理が好きなメンバーが、夏にそうめんと京野菜を食べるイベントをやってくれたこともあったね。イベントや企画をやることに、特に細かい制限も規定も設けてなかったけど、それぞれが興味関心を持つことから、アイデアを出しあえてたから続けられてたし、やりがいもあった。今思えば、当時のメンバーにとって移住計画は、それぞれが仕事や趣味も含め、自分のやりたいことを実現する場だった思います。

近藤

そうやんな。やりたいことが軸やったけど、メンバーの強みやユニークな企画力があったからこそ、充実した移住茶論ができて、たくさんの方が参加してくれてたように思う。その積み重ねが、今の移住計画につながってる。初期のメンバーには、本当に感謝、感謝やなぁ。

移住者から受け入れる側へ

ーーその後、移住計画の形はどのように変化していったのでしょうか?

田村

2014年から京都府の移住コンシェルジュ事業を受託したのは、大きな変化でしたね。最初から移住計画でやってきたことを事業化しようという気持ちが強くあったわけではなく、結果的に法人を作る必要性が出てきた。株式会社ツナグムとして京都府の移住関連の仕事を受ける枠組みの中で、移住茶論的なイベントもやるし、京都市の移住促進事業も受託することになって。

これまで手弁当だったイベントの経費が出ることで、活動的にやれるようになったんですが行政事業としてやることになるので、個人の楽しさだけを優先するのは少し難しいなと。

岸本

移住計画の活動がツナグムにインクルードされたことで、ずっと任意団体でいくより、組織化されてよかったんじゃないかなと、私は思っていました。東京から戻ってきて10年近く経って、私たちが「移住者」として何かをやるフェーズじゃなくなってきたのかなと。

田村

「僕らの出番じゃないかもね」みたいな話はしていましたね。きっしーがそれまで担ってくれていた「住」の役割を募集したのも大きかったと思う。

近藤

僕は、移住茶論みたいなコミュニティづくりのプロジェクトは続けることに意味があると思ってたので、これまでと変わらず、自分のライフワークとして関わろうという気持ちだった。だから僕が中心になって、移住茶論を開催するつもりで動いてたんやけど、コロナで開催を断念することになってしまって。でも、また移住茶論をやりたい気持ちはあるんですよ。ただ僕がやるというよりは、若いメンバーに中心になってもらって一緒に何かできたらなぁと思っています。

岸本

移住茶論はぜひ継続して欲しい!今、自分の会社でシェアハウスを運営しているんですが、関東からの移住者も多いんですよ。そういうときに、移住茶論を紹介してあげられたらいいのにって、思っていたんです。私自身が、移住茶論でできた繋がりがあって、本当に良かったことが多かったので。

ーー受け入れ側に立場が変わり、今後、皆さんはどんな役割を担っていきたいですか?

岸本

私は自分の不動産事業で、クリエイター向けの不動産物件をたくさんつくってきたんですが、これからはクリエイターのフェーズに合わせた物件をつくって行きたいと考えています。例えば、これからの駆け出しの人と、すでに有名になっている人では、払える家賃、求める環境は大きく違うので、それぞれにあった物件をつくり、提供することができたらと。

それと、必要とされてる層に向けた物件を作るだけでなく、クリエイターの中で仕事を紹介しあうなど、クリエイターが育つ環境醸成を京都でやっていくのが私の役目かなと思っています。

近藤

僕は移住計画に関わってよかったと思ってるのが、事業承継の後押しをしてもらったこと。京都市内も小さい規模から大きな企業まで跡継ぎの人がたくさんいる中で、当事者としての思いや悩みの発信は、まだまだ足りていないと思っていて。自身の八百屋の事業ではできることじゃないので、跡継ぎコミュニティの活動は京都移住計画の器を使いながら活発にやりたいな。

2020年11月からは、ツナグムがコアパートナーとして関わる京都信用金庫のビル「QUESTION(クエスチョン)」の8階にあるコミュニティキッチン「DAIDOKORO(ダイドコロ)」の運営にも携わらせてもらっていて。これは自分自身の事業である「食」と「跡継ぎ」、そしてこれまで移住計画のメンバーと一緒につくってきた地盤が今も続いているからこそできていること。その流れを自分の人生にしっかり落とし込んで、これからも頑張りたいですね。

ーー今後、移住計画として取り組みたいことはありますか?

田村

京都の他の事業者さんと協力する形での移住計画とか、受け皿づくりをやりたいですね。「住」の部分だと不動産会社さんだし、「職」だと「京信人材バンク」さんと連携できたら、面白いことができそうです。これから副業・兼業が京都で浸透すれば、関わりをつくれる人がもっと来るはず。活動開始から10年、これまで培ってきた関係性があるからこそ取り組めることにチャレンジしていきたいですね。

もう少し未来の話をすると、僕のイメージでは「生協」に近いことをやってみたいんですよ。生協には、共同購入するということだけでなく、会員の子育てや家事を別の会員が手伝ってくれるような仕組みがあって。要はネットワークの中で支え合える環境づくりができると、楽しく暮らし続けることができるんじゃないかと。

岸本

私もそれ、めっちゃ興味ある。子育てだけじゃなく、老後にも活かせそうなシステムだよね。職住一体の相談していたときも、結構、早期リタイアした60代からの相談も多かった。不動産は提供できるけど、その世代が楽しめるコミュニティが少なくて。

田村

老後を見据えたデザイン、仕組みにしていくのもいいよね。そういう意味では、何歳になっても移住計画のコミュニティの中でできることはいっぱいあるんですよね。

立ち上げから10年以上の年月が流れ、「移住者」だったメンバーの役割は徐々に「受け入れる側」に移り変わりつつあります。それに伴い、京都移住計画の在り方も変化してきたことを感じていただけたのではないでしょうか。これから大切にして行きたいのは、移住のその先、京都で楽しく暮らしていくこと。後編では、行政や企業とのプロジェクトを企画運営しながら、移住計画として活動するメンバーに「これから」について話を伺います。

岸本千佳
不動産プランナー。大学で建築を学んだ後、東京の不動産ベンチャーに入社しシェアハウス事業・DIY 事業の立ち上げに従事。2014 年に帰京後、addSPICE を設立。不動産企画・仲介・管理を一括で受け、建物の有効活用を業とする。著書に『もし京都が東京だったらマップ』(イースト新書Q)。
京都移住計画では不動産担当として、物件紹介や職住一体相談を担う。

近藤貴馬
創業90年の八百屋、西喜商店の四代目。
㈱セガにて6年間営業職として従事した後、㈱地元カンパニーにて産地直送カタログギフト事業の全国展開を担当。2015年春に京都にUターン。京都中央卸売市場付属売店である立場を活かしつつ、産直仕入れも取り入れた多様性のある八百屋として事業に取り組んでいる。
Uターンと同時に携わった京都移住計画でのコミュニティ運営、企画の経験を活かし、現在は田村と共にQUESTION8階にてコミュニティキッチン「DAIDOKORO」運営の為、株式会社Q’s役員としても活動中。

田村篤史
京都生まれ。3.11を契機に東京からUターン。京都移住計画を立ち上げる。2015年にツナグムを創業。採用支援、企業や大学など拠点運営、地方への関係人口づくり等を通じて、人の働く・生きる選択肢を広げる。2020年、京都信用金庫の共創空間QUESTIONの運営に参画。新会社Q’sを設立し「京都のまちにもう一つの台所を」をコンセプトにしたコミュニティキッチン事業を開始。

編集:北川由依
執筆:ミカミユカリ
撮影:進士三紗

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