節分とは季節を分ける節目。
一般には立春の前日を言う。
そんな節分には豆を食べる。
季節の変わり目には邪気(魔)が生じると考えられており、「豆」を「魔(ま)を滅(め)する」、炒り豆の「炒る」を「射る」にかけて、「魔目を射る=邪気を払う」という意味を持たせているのだそう。
京都の様々な神社仏閣で節分祭が行われている。その中で歴史あるものの一つが壬生節分会であり、900年ほど前から行われているらしい。
年が明けても落ち着かないのは、この節分会があるからだ。
実はうちは、一年の中で節分が最も忙しい。「甘納豆」という和菓子を商っており、私で4代目になる。家業に入ったのは2016年、26才のとき。30才で4代目を継いだ。
ただ、私は元々家業を継ぎたかったわけではない。むしろ、「甘納豆屋にだけはなりたくない」と思っていた。
なぜ?中学生の頃、「甘い納豆なんて気持ち悪い」となじられたのが恥ずかしかったからだ。
それ以来、自分の弱みのように思い、家業を隠して生きていた。
そんな私が、今、甘納豆屋であることを天職だと思っている。その転機がまさに、この壬生寺節分会だった。
生き物が好きだった私は、大学院まで微生物を研究していた。研究という最先端の世界は、今思えば古臭い家業への反発もあったのかも知れない。
元々はアカデミックな研究者を目指していたが、できる同期たち(親族が実際に教授の人もいた)を見て、自分にはレベルが高い、と思い、より間口の広い就職活動をすることに。
色々な仕事に触れる中でふと、「家業があった」
と気づき、知らずに社会に出るのはもったいない、という気がして、かつアルバイト代も出るなら一石二鳥だと当日の手伝いを志願した。

2つの驚きがあった。
1つはお客様。
節分会の3日間、延べ3000人ほどの方がうちの甘納豆を買って下さっていた。どうせ暇だろう、という見当が外れた。節分会に来て、お参りをして、お土産に甘納豆を買って帰る、という文化が根付いていたのだ。「毎年美味しい甘納豆をありがとう。楽しみにしてた。」沢山の嬉しいお声を頂いた。
菓子屋は人に喜ばれるいい仕事だ、と家業を見直した。
2つめはお金。
当時はPayPayもない。甘納豆と交換で現金を頂く。当たり前のようにそれを続けていたとき、「このお金で大学院まで研究ができた」ということを体験として知った。
「甘納豆のおかげやったんや」
自分の人生になかったことにしていた甘納豆が実は恩人であったことが衝撃的だった。
継げと言われたことは一度もなかった。
が、継げるのは自分しかいない、ということは薄々気づいていた。
「恩返しがしたい」と思い、継ぐ決心をした。
2013年のことだった。
それから3年後、他の菓子店勤務を経て、実際に家業に入り、もう9年になった。
年が明けると「もう節分まで一ヵ月かぁ」という気持ちになる。
製造が追いつくだろうか、という忙しなさと、あの日からもう◯◯年か、という懐かしさの入り混じった、節分特有の気分になる。
今年もマメに暮らせますように。

近藤 健史
京・甘納豆処 斗六屋4代目/SHUKA代表
1990年京都市生まれ。京都大学大学院で微生物を研究後、家業へ。日本伝統の食文化である甘納豆を次世代へ繋ぐため、2022年、古くて新しい種菓子ブランド「SHUKA/種菓」をスタート。2023年、種で作る独自の植物性ジェラート「SHUKA gelato」を開発。「種を愉しむ」を合言葉に事業を展開中。2024年、Forbes Japan CULTURE-PRENEURS 30に選出。
執筆:近藤 健史
編集:北川 由依