2024.12.04

私の第一章をキャリアブレイクで迎える

2024年の春まで、大阪の調理師専門学校に通っていた。

学校では、主に日本料理の調理技術と店舗マネジメントを勉強していた。就職活動も順調で、東京の寿司屋に就職を決めていた。
しかし、私はキャリアブレイクという選択をして、料理人になってからではなかなか出会えない人に会い、食を知る機会を得た。

キャリアブレイクする前のこと、京都とのつながり

はじめて京都に住んだのは、専門学校の1年生のころ。デンマークコペンハーゲンにある世界一の称号を持つレストラン『NOMA kyoto』のインターン生として、約1ヶ月間にわたって住み込みで働きはじめたのがきっかけだ。

NOMAは料理人を目指すきっかけにもなった憧れのレストランだった。

高校3年生の冬、NOMAの料理人である高橋淳一さんが作る料理の美しさに魅せられて、料理は芸術作品でもあり、食べて考えることで、初めて「味わう」ができるのだと感動した。
「いつか高橋淳一さんと一緒に働きたい!」という目標を立てて、調理師専門学校に入学した。

憧れのNOMAの空気感は、とても熱く、メンバーはまるでアベンジャーズのようにかっこよかった。料理の道に進むきっかけとなった高橋さんとは、初日に食堂で対面。緊張のあまり声が出なかった。嬉しすぎると、吐き気を催すんだと初めて知った。研修期間はあっという間で、英語でのコミュニケーションが上手くいかなかったり、早朝から夜遅くまで慣れない仕事だったということもあったりで、体力的にも精神的にも大変だった。

その後、専門学校で所属していたSSHというサークルの先生に「面白そうなプロジェクトがある」と紹介していたがいたことががきっかけで京都信用金庫にあるコミュニティキッチン『DAIDOKORO』が運営する『THE BLUE CAMP』に参加した。THE BLUE CAMPは、海の未来をシェフと一緒に学び、ポップアップレストランを開くプロジェクトだ。

一期生として参加したため、良くも悪くも前例がなく、自分たちで学び、漁師の仕事、仲卸の仕事、レストランの仕事等、海に関わる様々な現場のリアルをお客様に伝えることやレストランを運営することが、いかに難しいことなのかを痛感した3ヶ月間だった。NOMAもThe Blue Campも種類は異なるが、大変で、とてつもなく充実した日々で、私の中の何かが大きく動く、貴重な経験だった。

就職という選択をしなかった訳

学校で進路関係のイベントがあれば、全てに出席して、最前列の席で必死にメモを取る。そんな学生だった私が、卒業してもなお料理人になっていない未来を想像できただろうか。

しかし、進路のイベントに積極的に参加していたものの、当時から私は就活に対する違和感があった。

「なぜ、調理学校の卒業後の進路が、一般店とホテルという選択肢にしかないのか」
「料理人一年目は、皿洗いと食材の下処理、ゴミ処理が仕事というのは本当なのか」
「ミシュランを取得している店に就職した方がいいのは、箔が付くから?」

答えのない問いについてずっと考えていた。
そして、相談できる相手は学校の先生しかいなかった。

そんな違和感を抱えているときに、THE BLUE CAMPに参加し、平安神宮近くのイタリアンレストラン『cenci』を営む坂本健シェフ、新しいフレンチの形を表現する『Restaurant MOTOÏ』の前田元シェフに出会った。料理人の域を超えたフィールドの広さ、料理の知識と言葉の表現力。そして、リアルを料理に落とし込むスタイルを目の当たりにして、料理にはまだまだ未知の領域があるという希望が見えた。

こんなに素敵な料理人がいるという事実も知ってしまった。私が見てきた世界が、いかに狭く、食を料理としてしか捉えていなかったのか突きつけられた。

最後はTHE BLUE CAMPで、私のコーディネーターを担当してくれた株式会社Q’s 取締役でコミュニティキッチンDAIDOKOROの運営をする前原祐作さんが、「ほんとに行きたいと思うレストランが見つかるまで、うちのスタッフになりなよ」と言ってくれたことで、背中を押され、キャリアブレイクを決意。自分自身と向き合い、食に関する様々な世界を知る期間にしようと決心した。

キャリアブレイク中の仕事とその中での出会い

宮津の漁師 本藤 靖さん
The Blue Campでは、本藤さんという漁師さんに出会った。本藤さんはもともと研究者だったこともあり、海の生態をよく理解している。そんな本藤さんにしかできない、資源管理に工夫を凝らした漁がある。本藤さんの育てたオオトリガイをいつか食べてみたい。
出会った日にもらったお土産のナマコは、DAIDOKOROの仲間と自分たちで処理して食べた。ナマコを処理するのははじめてだったが、魚のような繊細な包丁捌きはいらないので、案外手軽だなと感じた。味は個体差があり、食感はコリコリで面白かった。

レバノン料理 汽

日本料理屋で出会った岡田さん
神宮丸太町駅の近くにある日本料理屋『/そ/なかひがし』で、岡田さんと出会った。日本酒の話や京都の食材など、京都のこだわりの詰まったレストランを多く知る岡田さんは、次の日にレバノン料理を提供する『汽[ki:]』でモーニングをご馳走してくれた。はじめて食べるレバノン料理だった。ピタパンにプレートの上にある食材をはさんでかぶりつく。とてもおいしかった。ピタパンはスローフードだが、汽はファストフードのような手軽さがある、そんな素敵な一皿だった。

その後も、岡田さんとはマルシェに行った。そこで、旅するパン屋『HIYORI BROT』のパンを買った。マルシェに来た人たちの9割がパンの購入をしており、私自身も食パンの概念が変わる出会いをしてしまった。裏の成分表を見て、何とも言えない甘みはみりんから来ているのかなと思った。

岡田さんは行動力があり、若々しい。いつもいろんなところに足を運び、私たちのような若者に食の魅力を教えてくれる。でも岡田さん自身が一番楽しそうに食を勉強している。そんなところが素敵だと感じる。

DAIDOKOROのスタッフ
DAIDOKOROに行くと、いつも楽しい。たぶん一番笑っていられる場所。

私の中では、京都は未知の場所だった。しかし、DAIDOKOROのスタッフがいろんな場所に連れて行ってくれて、おいしいものをみんなで食べたことで、とても幸せな時間に変わった。ときには、DAIDOKOROを良くするためにどうしたらいいかを真剣に考える時間もあり、アルバイトとスタッフの垣根がなく、私のアイデンティティをどこよりも大切にしてくれる場所だった。DAIDOKOROでたくさんの人たちに話を聞いてもらい、さらにはそこでの出会いがきっかけで新しくオープンするお店で2025年春から働く予定だ。私が京都で、充実した生活が送れているのは、DAIDOKOROと出会えたおかげだと思う。

自分の変化

私にとってキャリアブレイクは、ブレイクタイムではなかったのかもしれない。マンスリー手帳の空きは、月に1〜2日間だった。この選択をしたからこそ出会えた人たち、得られた経験があった。

京都で生活を始めたときは不安でいっぱいだった。一人暮らしも初めてで、知り合いもほとんどいない。休みの日は鴨川で読書したり、慣れない自転車で坂道を走ってみたりしていた。

DAIDOKOROをきっかけに、生まれた人との縁は、肩書のない自分を一歩ずつ前進させてくれた。

そして、少しずつ仕事をもらえるようになり、たまには周りが見えなくなることもあったけど、忙しいなかでも初心を思い出して心の余裕をつくれたことは、休んだり立ち止まることの苦手な私にとって大きな成長だったと思う。

これからも、自分のペースで余裕を持つことが出来たらいいな。

櫻井 春風

茨城県出身。高校時代に影響を受けたNOMAの芸術作品のような料理を見て、料理人を目指す。大阪の調理師専門学校で2年間日本料理を学ぶ。学生時代THE BLUE CAMP一期生として参加。株式会社Q’sが運営するコミュニティキッチンDAIDOKOROに出会い、2024年の春から働く。日本財団が行う『海と日本プロジェクト』の助成を受けて、未来を担う次世代の若者を対象とした人材育成プログラム『THE BLUE CAMP』の二期目のクルー運営メンバーとしてプロジェクトに参加。烏丸御池にあるジャンルレスな創作料理「before9」のメニュー開発や、株式会社のぞみでヴィーガンの寿司開発に携わる。

執筆:櫻井 春風
編集:つじのゆい

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