2025.06.13

「キャリアブレイクは逃げかもしれない」と思っていた──立ち止まった私が見つけた、もうひとつの働き方

「石垣さん、来月から京都本社で勤務ね」

新卒で入社した人材会社では、拠点立ち上げのメンバーとして東京で働いていた。
2015年3月、社長とのランチの場で唐突に人事異動を告げられる。

神奈川県出身の私にとって、京都は修学旅行や空手の遠征で訪れる場所だった。

新卒入社後は、採用活動を強化したい企業に対し、求人広告を提案する新規営業に2年間従事してきた。

3年目から京都本社の配属になり、新規顧客だけでなく既存顧客も担当し、常に200社以上のクライアントを抱えて採用成功に伴走していた。当時、私にとっての「仕事」や「売上」とは、単なる作業でも数字でもなかった。クライアントへの想いや、再び任せてもらえることこそが信頼の証であり、結果としての目標達成だと考えていた。

忙しくても、売上数字が届かなくても、労力を注ぐことで帳尻を合わせてきた。
だからこそ、立ち止まることだけは、自分にとって許せなかった。

そんな私が結婚、妊娠を経て外的なきっかけとはいえ、自ら立ち止まることを経験することになった直近の変化を振り返る。

空手、音楽。京都のつながりがくれた再起の感覚

移住当初、京都での生活は2年ほどで終えるつもりだった。繋がりも一切ない京都での毎日は仕事のためのものでしかなく、「関東に戻りたい」と社長にも伝えていた。

そんな私が、「このまま京都で生きていこう」と思えた転機があった。京都生活2年目の夏、週末を寝て過ごすことが「立ち止まっている」ようで、物足りなさを感じていた。「自分らしく生きている」と思える時間を得たくて、学生時代まで続けていた空手をもう一度やってみようと思った。

京都で見つけた道場の考え方は、それまで“競技”として捉えていた私にとって、武道としての強さだけではなく、“空手そのものを生きる”という姿勢を教えてくれた。

具体的に道場では、試合の勝ち負けよりも、大人が未経験で空手をはじめ、黒帯を取り、段を積み上げていくことや稽古そのものを大切にしている。そこに集う道場生との稽古の中で初めて知ることも多く、「もう一度試合に挑戦してみたい」という気持ちになった。

その結果、京都大会優勝、近畿大会準優勝、全国大会3位。日本一には届かなかったが、誇れる挑戦だった。

新型コロナウイルス感染症の蔓延で対人稽古が制限されてからは、新しい挑戦としてバンドのボーカルをはじめた。ただ、自分の存在を確かめたかった。空手のように「身一つで始められるもの」を基準に選び、ライブハウスの門を叩いた。

今ではバンド歴が5年となり、まったく異なる生き方や環境を持つ京都の仲間たちと、ひとつのライブをつくり上げている。その過程には、空手や仕事では得られなかった学びが詰まっていて面白い。

“頑張ればなんとかなる”が通用しなくなったコロナ禍

空手やバンドで自分の存在を取り戻す一方で、仕事では大きな壁にぶつかってしまった。

2020年の30歳を迎えた年に、コロナ禍で緊急事態宣言が出され、「社会が止まった」とさえ言われた。私の仕事も大きな影響をうけた。当時は売上目標を週単位で掲げて成果を出していたが、私が担当していた京都市内中心エリアは観光客向けのサービス業が多く、地域全体で大きな打撃を受けていた。週末でも人が歩いていないまち。クライアントからの依頼はなくなった。

体力さえあれば──。
クライアントと向き合えれば──。

それさえできれば、目標は達成するものだと思い込んでいた私は、頑張っても結果に結びつかない現実に直面した。

同時に、これまで積み上げてきたものが崩れた感覚があった。
そして気づいた。自分が信じていたものは、案外もろく、幻想だったのかもしれないということを。

それまで走り続けてきた反動か、体力にも限界がきた。振り返れば、緊急事態宣言が発令された2020年以降の4年間、毎年のように小さな手術を受けていた。心と体が絶好調ではなかった。

ただ、ありがたいことにご縁があり、籍を入れたのもこのタイミングだった。それまで、「自分は結婚はしないだろう」と思い込んでいたこともあり、どこまでも仕事に時間を費やすことができた。クライアントの採用成功が、私にとってすべてだった。でも、家庭を持つと決めた瞬間から、それだけに時間を使うわけにはいかなくなってしまった。

成果をあげることができないのかと自分を責め続け、一緒に仕事をする仲間への申し訳ない気持ちが膨らむ日々。空手やバンドをしていても心が疲弊してしまい、最近まで自信のなさが表情にも出ていたように思う。

今振り返ると、あの頃共に働いてくれていた仲間たちには感謝しかない。
支えてもらっていたのに、それに応えられない自分が本当に悔しかった。

どうしようもできない日々を、ただ必死に生きた。

この4年間、本当に長かった。

「止まれない自分」から「止まってもいい自分」へ

日常を取り戻してきた2024年、止まることを許せなかった私にとって、「止まらなければならない出産」は、まるで試練のようだった。

頑張らない自分には価値がない。そう思い込んでいた私は、頑張れない日々の中で、繰り返し自己否定を重ねていた。そんなとき、京都移住計画が開催する「京都で働く」をゆるっと相談できるキャリアミーティング『ゆるキャリ』に参加して、中村千波さんと出会った。

京都で暮らすようになり、ライフステージは大きく変化していたにもかかわらず、価値観だけは独身時代のまま変わっていなかった。中村さんとの対話は、自分のその状態に気づくきっかけになったように思う。

働き方も、暮らし方も変わっていたのに、「こうあるべき」という考えに縛られたまま、自分自身を見直すことはなかった。そんなタイミングで、離職や休職、休学で一時的にキャリアを離れる「キャリアブレイク」という言葉に出会う。

当初は、立ち止まるという発想自体を、なかなか受け入れられなかった。
そうした生き方は、自分には許されないように感じていたから。
でも、今思えばどこかで救いを求めていたように思う。

2024年10月に一般社団法人キャリアブレイク研究所の代表理事 北野貴大さんと、京都移住計画の田村篤史さんが「そもそもキャリアブレイクとは何か」という問いから、どう京都でキャリアブレイクを過ごしているかなどを、参加者と共に深めるトークイベントに参加した。

お二人の話を聴いた上で、率直な質問をぶつけてみた。

キャリアブレイクを肯定・推奨することで、社会の動きを止めるリスクはないのでしょうか?
企業の売上や利益を落とす可能性がある働き方を推奨してもいいのでしょうか?

キャリアブレイク研究所代表の北野さんは、どんな問いにも誠実に応えてくださった。そのやりとりの中で、「頑張らなくても、立ち止まっても、いいのかもしれない」と、ふと思えた瞬間があった。

キャリアブレイクが社会にとってどのような意味を持つのかは、正直なところ今も分からない。ただ、この時間が「私個人の生き方」にとって、かけがえのない意味を持つことは、今の私にははっきりしている。

以前の私は、「立ち止まる=価値がないこと」だと信じていた。止まることが苦しくて、焦って、責めて、それでも走ろうとしていた。でも今は、「立ち止まる時間も、生きるための時間だ」と思えるようになった。

そう考えられるようになったことが、型にはまった自分を手放すきっかけとなった。出産後から現在に至るまで、この考え方には何度も支えられている。

もし今、立ち止まることにためらいを感じている人がいたら、無理に走り続けなくてもいいと伝えたい。

止まることにも意味がある。そう考えられるようになって初めて、私は私自身のリズムを取り戻しつつある。

「一人で頑張る」から「誰かとつくる」キャリアへ

自分に何ができるかはまだわからないけれど、誰かの話や悩みに向き合っていく中で、今度は場を支える側にまわっていきたいと思うようになった。

たとえば、子育て中の親が少しだけ息をつける場をつくること。そんな小さな実践からでも、地域に関われるのではないかと感じている。

私にとってのキャリアは、「誰かと一緒に問いながらつくっていくもの」に変わってきた。誰かの役に立ちたい気持ちも、家族と穏やかに過ごしたい気持ちも、どちらも本当の私。

京都での暮らしの中で、それを天秤にかけるのではなく、重ねていくことができるかもしれない。

誰かのためにできる、小さなこと。

それを一緒に見つけていける仲間がいる場所で、これからも“まだ答えが出ないこと”も一緒に、生きていこうと思う。

石垣 桃子(いしがき・ももこ)

神奈川県出身。大学卒業後、京都の人材企業に入社。営業・採用支援・マネジメント・自社採用などを経験し、特に未経験者向け求人や中小企業の採用課題に向き合ってきた。現在は、東京のベンチャー企業にリモート勤務中。出産・育児休暇をきっかけにキャリアブレイクを経験。

執筆:石垣 桃子
編集:つじのゆい

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