募集終了2017.03.19

年輪のごとく真心を重ねた歴史を継ぐ。木と人と対話するビジネス

パチパチッと聞こえる薪のはぜる音。静かにゆらめく炎を家族みんなで囲む時間。そんなふうに家中を明るく照らし、暖かい気持ちにしてくれる「薪」は、暖房から炊事や風呂焚きなど、生活の全てを担ってきた必要不可欠なエネルギー源でした。

木材の中で最も重くて堅い「カシの木」を使った、こだわりのカシ製品と薪を製造販売しているのが、今回ご紹介する「堅木(かたぎ)屋(や)」です。大正2年、和歌山から良質なカシ材を求めて、この舞鶴の地へと移ってこられました。堅木屋がある舞鶴市は、子供の頃から「弁当忘れても傘忘れるな」と教育されるくらい陰雲な気候のため木の成長が遅くなり、身の引き締まった木が育つのだそう。そのため寒い山陰地方に生息する山陰カシは、昔から最高級とされてきました。

カシの木の魅力

一般的な木と、カシの木は、一体何が違うのでしょうか?堅木屋4代目である出立浩之さんに、お話をうかがいました。

「カシの木は、一度着火すると火の持ちが良く、長い時間火が残るので、家の暖かさが持続します。ストーブが冷え切らないため、翌朝着火するのもスムーズです。購入して頂いたお客様からは、当社の薪は、よく乾燥しているというお声を貰うことが多いです。薪の積み方ひとつとっても、空気がよく通るようにしたり、様々な工夫を重ねています」

カシの木は、最も堅く耐久性に富む木材で、古くから大工道具や農耕具などに使用され人々の生活を支えてきました。日本で一般的に伐採されているスギの木は、真っ直ぐで扱いやすいですが、カシの木は曲がっていることが多く、伐採するだけでも大変な苦労があるといいます。

「だからこそ大切に使おうと思いますし、木は成長のスケールが人間と似ていて、30〜40年経ってようやく使えるようになるため、自然と感謝の気持ちが芽生えます」と出立さんは語ります。

「これまで、何十年も生きてきた木を苦労して伐採すると、無駄なく使ってあげたい気持ちになります。木は鉄のように質が均一ではなく、自然に大きく左右されますし、良し悪しが分かるようになるまで、時間が掛かりました。年に1本あるか無いかですが、真っ直ぐで目が通っていて、中心のボタン模様が少なく、中身が詰まっているような最高に質が良いカシの木を見ると、抱いて眠りたい!と思うほどです」

自然を生かすこと

「いかに無駄なく木を使ってあげることができるか?」と、日々工夫しながら仕事をしていると語る出立さん。自然に対する愛情と優しさを感じることができます。その思いは、全て自然素材として活用できるように、堅木屋の薪が一般的なハリガネではなく、燃やすことができる「縄」で括られて出荷されることにも表れています。

堅木屋では、地面に近い真っ直ぐな部分は傘の柄、枝分かれした部分は薪にするなど、部位によって製品の用途を変えることで品質を追求しているといいます。また、切り出し方にも工夫があり、木目が斜めになった状態では、カシの木の堅さが全く活かされず、期待される機能を発揮できないため、木目に沿って「目が通った」状態で製材して、木を生かすことを大事にされています。

19年前の事業を継ぐ決意

カシの木をメインで扱う業者は、日本では片手で数えられるほどに減少しており、知恵や工夫の継承が難しいのが現状です。堅木屋は100年続く老舗企業ですが、出立さんはなぜ事業を継承しようと思ったのでしょうか?

「子供の頃から、父親が木工所で働いているのを見て育ちましたから、こんな大変な所で仕事したくない!と思っていましたし、親からも止めておけと言われたくらいでしたね(笑)。もともと化石や土にロマンを感じていたので、地質学の学校へ進み、ポーリング調査や地層を研究する仕事をしていたのですが、どんな仕事でも大変だということが分かってきました。なので、Uターンをきっかけに、祖父に木工所を継がないのか?と言われた時、これまで堅木屋が紡いできた歴史やお客さんを大事にしないといけないなぁと思い、継ぐことを決めました」

継承者が決まり、順調なように思われた堅木屋に大きな衝撃を与える事件が起こりました。それは、出立さんが木工所で働き出して3日目のことでした。出立さんの父親である3代目が肝臓ガンで倒れたのです。

「慣れない配達も製材の作業もやる以外には選択肢がないという状態で、毎日父親が入院している病院に通って、経営について指南を受ける日々が始まりました。最初から大変なことだらけで、後に戻ることもできませんでした。幸い、従業員の方はみんな年上の方で小さい頃から知っている人が多かったので、話を聞いてくれたりして支えてくれました」

心も身体も健康でいるために

そんな手探りの状態が3年ほど続いたある日、今まで一度も真っ直ぐ切れなかった木が突然真っ直ぐに切れるようになったそうです。カシの木の良し悪しや製材加工技術は、教えられて出来るものではなく、練習を重ねるしかないといいます。経験を積み重ねる必要がある作業のため、堅木屋の従業員の方は、長く勤めている方ばかりです。その反面、高齢者が多いため、健康に気を使うことを日々大事にされています。どのように健康に気をつかっているのか、お話を伺いました。

「この仕事をしていたから、腰が痛くなったと言われてしまっては、誰も幸せにできないので、みんなで毎日、腹筋・背筋・速筋を鍛える体操をしようと思い、この前、通販でマットを3枚購入しました。まだ従業員の誰にも言ってないので、みんなびっくりすると思います。父親が身体を壊してしまった経験もありますし、みんなにできるだけ無理をせず、長く働いていて欲しいですから」

みんながどんな反応をするのか楽しみだと語る出立さん。「うまく事が運ばないことや、どうしようもないこともしょっちゅうで、心が病んでしまいそうなこともありますが、どうにもならない時は笑い飛ばしてしまうしかないですね(笑)」と、出立さんのあたたかい人柄がにじみ出た瞬間でした。

丁寧に紡いできた歴史と人のつながり

「自然を相手に仕事をしているのならば、一気に大きくなってはいけない。細く長く切れないようにやっていくしかない」

これは、出立さんのお祖父さんがよく話していたことだそうです。木も人も自然から頂いたもの。どちらも大切にしたいと願う姿勢は、堅木屋のロゴにも表現されています。

「堅木屋は、親子のつながりで代々やってきました。お互いがみんなを助け合う風土や、これまでの歴史を次の世代にも伝えたい、という思いを込めて、このロゴを作りました。製材には様々な工程がありますが、自分の次の工程の仕事をする人は、全てお客様なのだ。ということをよく話します。そんなふうに心を込めた仕事をつなげていきたいと考えています」

その思いを具現化するように、人のカタチをした木の実の横に、従業員や取引先のお客様の名前が書かれていました。先代の精神を繋ぎ、まるで木の年輪のように、じっくりと丁寧に心を込めた仕事を積み重ねてきた堅木屋。どんな人にその思いを継承してほしいと考えておられるのでしょうか?

「チームワークを大切にできる、思いやりのある人に来てほしいと思っています。うちの息子には、障がいがあるのですが、そういう社会的弱者に対しても思いやりを持っている若い人に来てほしいですね」

「製材という言葉からは、なかなか想像できないかもしれませんが、私たちの仕事は、住まいを建てるための大工道具と、生活を支える火。人類にとって無くてはならない、このふたつを支えることで世の役に立てる仕事です。そんな仕事を生業にできることを私は誇りに思っています」

そう語る出立さんは、次の世代に事業を継承できたら、木を切るという製材業の肝の部分を支えるノコギリの刃を削る仕事に挑戦したいと考えているそうです。堅木屋の最少年齢は、45歳。若い力が求められています。

意外な移住のきっかけ

製材の仕事を通じて、社会福祉に貢献したいという出立さんの思いに共感して、昨年9月に入社され、堅木屋の従業員の中で最年少でもある山本大輔さんにお話を伺いました。

山本さんは10年ほど前まで、大阪でアパレル業の仕事に携わり、全国の百貨店や専門店を得意先として、まるでバスにでも乗るように、飛行機で飛び回る毎日だったそうです。取引先にも可愛がられ、忙しくも充実した毎日を過ごしていました。しかし、あることがきっかけで田舎に住みたいと思い、舞鶴の隣に位置する綾部へ移住されました。どんなことが移住のきっかけになったのでしょうか?

「出張先で出会った方に土のついた落花生を送ってもらったんです。それを植えようと思ったのですが、都会で家庭菜園をしようとすると、土を買わないといけないんです。そのことに違和感を感じたのが、全ての始まりでした」

都会にも土は周りにたくさんあるけれど、それは誰かの所有物。自分が根付ける土地がほしいと思い始めた山本さんは、田舎暮らしに興味を持ち始め、週末は奥様といろんな場所にドライブに出かけ、住む場所を探していました。ある時、目の前を綺麗な川が流れる古民家を見つけました。ロケーションに魅了された山本さんは購入を決意し、その家を奥様と二人でコツコツと修理を施し、メドが付いた段階で思い切って仕事を辞めて移住されました。

その後、山本さんは家を直した経験から大工仕事を極めたいと思い、職業訓練校に通いながら、木の扱い方を学びました。そこから地元の建設会社に就職して、古民家再生事業の立ち上げに関わり、その会社は今では、古民家再生の分野では全国でも抜群の知名度を誇る会社に成長したそうです。ただのサラリーマンに過ぎなかった移住前の山本さんには、思いもよらなかった人生だったと言います。

「田舎への移住は、自分で起業しないとダメだと思い込んでいる人が多いです。テレビで取り上げられる移住者は、華のある人が多いですが、派手な事例ばかりをメディアが取り上げることには、問題が多いと思います。ユニークな人がもてはやされる昨今ですが、実際の田舎の人は変わったものを受け入れるのを怖がります。目新しいクリエイティブなものを持ってこられても、戸惑ってしまって、マッチングしないことが多いのではないでしょうか」

「自分は、ごく普通のサラリーマンだったと思う」という山本さん。田舎に移住したことで、結果的に以前より活躍の幅が広がり、輝けることができたと感じているそうです。

「社会的な常識を持っている人なら、どこに行っても通用すると思います。今まで都会で培ったスキルを活かすには、「田舎の常識」をないがしろにしないことが大切だと思うのです」

Uターンや移住をしてみたいという気持ちはあるけれど、「田舎に行っても仕事が無い」「手に職がないと生きていけなさそう」という声をよく聞きます。しかし、視野を広げてよく調べてみると田舎にも会社はたくさん存在します。むしろ田舎にこそ、山本さんのような普通のサラリーマンが活躍できるチャンスと舞台があるのだと感じるお話でした。

薪ストーブとの出会い

「古民家の仕事は、僕にとても向いていたようです。僕はお客様には絶対に感動してもらおうと思っていましたし、これだけ心を込めて仕事をするやつは他にはいない!と本当に思っていました。何もないところから何かを作る、そんな仕事が面白くてしょうがなかったんです」

当時の様子を楽しそうに語る山本さんの目はとても真っ直ぐです。そんな充実した日々を過ごしていた山本さんは、次に情熱をかけたいと思うものに出会います。それが薪ストーブでした。

「薪ストーブは幸せの象徴であり、非常にプリミティブ(原始的)な存在だと思います。ストーブを中心にして、家中が暖かい気持ちになります。薪は再生可能エネルギーで、人にも地球に優しい。太陽光発電を広げようとする運動もありますが、老朽化した後の施設の処分に関しては、まだ白紙のことが多いのが現状です。それに、景観も良いものには思えませんしね。次に自分の人生をかけるのは、薪ストーブだ!という直感がありました」

山本さんは、そう決意した後、すぐにプライベートで親交のあった業者に掛け合って、ストーブ事業を始めるための準備を始めました。それから6年間ほど、公私とも薪ストーブとどっぷり関わる日々が続き、業績も順調に伸びていました。

「全てがうまくいっていたんです」

そんな日々がずっと続くと思っていたある日、山本さんの父親が急な病で倒れました。

そこから実家の大阪と行き来するため、仕事を辞めることになり、都会に戻ろうかと考えたそうです。しかし、父親の命が助かったということは、まだ田舎で頑張れというメッセージかもしれないと思い、次の職探しをしていた時、堅木屋のことを思い出したといいます。

「6年前にも堅木屋では社会福祉への取り組みを行っていました。ただ、その仕組みではどうしても薪の価格が高くなってしまい、売るには難しいだろうと「薪ストーブ屋目線」で考えていました。また「障がい」を売りにしたような商品では本末転倒だとも考えました。今から思えば、出立さんは暗中模索のなかで、なんとか「実践」を積み重ねていこうとしたのでしょう。社会的弱者に対して、この社会は真正面から向き合ってきませんでした。そんな中、「評論ではなく行動で」思いを示そうとした出立さんの勇気に6年越しで気が付かされました。次に自分が進むべき道がハッキリと分かった瞬間です」

真面目で実直すぎる性格の出立さんの思いを噛み砕いて、ユーザーに届けたい。薪だけでなくストーブにも精通している自分に打ってつけの仕事だと思った山本さんは、面接を受けて晴れて正社員になりました。しかし、問題は山積みでした。薪を売りまくろうと張り切って入社したのに、前年に行った生産調整の影響で、すぐに薪を売り切ってしまい、ほとんど在庫がなくなってしまったのです。

「むしろ、本当の戦いの日々が始まったと思いました。売るものがないのは仕方が無いので、まずは今できる事をしようと、薪の製造工程を見直し、原価率を改善したり、新しい売り方を発案して、一人でも多くの方の手に堅木屋の薪が届くようにしました。幸い入社以後の業績は好調に推移しています。でも、次のシーズンに向けて挑戦することは山積みです。次は、執務室にある錆びたストーブを磨いてピッカピカに仕上げて驚かせてあげようかなとか、そんなことを考えていると寝るときもワクワクして、なかなか寝付けなかったりします」

「この会社は必ず成長しますよ!」という力強い山本さんの言葉。試練を試練と思わない意気込みを感じました。

木を通して人や自然に思いやりを持てる仕事

堅木屋がある舞鶴市は、海と山に囲まれた街で、東西に大きく2つに分かれて構成されています。堅木屋が木工所を構える西舞鶴は城下町であり、商業の街として発展してきました。東舞鶴はその昔、日本海側唯一の軍事拠点として栄えた重工業地区で、それぞれ違った見どころを有しています。

カシの木を活かすための製材技術を身につけることができるばかりでなく、自然や文化に囲まれた場所で、自分自身も活かすこともできる環境がここにはあります。

まさに今、未来に向けて大きく前進しようとしている堅木屋。

あなたも一緒に、その一歩を踏み出してみませんか?

募集終了

オススメの記事

記事一覧へ