2018.04.24

京都・洛西で進展する団地再生 vol.2逆に今あたらしいニュータウンの世界

「ニュータウン」という言葉には、どうやら明確な定義は無いらしい。だけど、ほとんどの人が耳にしたことがあって、「団地とその周り」というイメージの人が多いと思う。

様々な資料を要約すると、ニュータウンとは、「大都市の周辺に新たに計画的につくられれた街」となる。団地だけでなく、戸建住宅や公園や学校、ショッピングセンターなど、通常さまざまな要素がある“街”なのだ。

なぜニュータウンがつくられたかというと、戦後の住宅難の時代に都市部に人口が集中し、供給が追い付かないため、住む場所を早く大量につくる必要があったからだ。第二次大戦後,まずロンドンなどの大都市圏で広がり、日本でも1963年に「新住宅市街地開発法」という法律が制定され、ニュータウンづくりが進んだ。現在、日本のニュータウンの数は、この法律に基づき自治体などが作った全国に46箇所、民間などで法律に則らないもので2000箇所ほどあると言われている。

今回取り上げる洛西ニュータウンは、京都市最初の大規模計画住宅団地として、1972年着工された。公営住宅や日本住宅公団(現UR)、公社などが中高層の集合住宅(いわゆる団地)を建設し、加えて低層の分譲住宅も建設された。

ニュータウンは意図して計画された街であり、洛西ニュータウンでもそれが垣間見ることができる。まず、洛西ニュータウンは4つの地区に分けられ、地区ごとに会館と商業施設からなる複合施設「サブセンター」が配置されている。そして、各家庭から徒歩で約10分以内にスーパーに買い物に行けるように計画されている。 さらに、ニュータウン全体の中心施設となる「タウンセンター」には、バスターミナルや高島屋を核とするラクセーヌというショッピングセンター、銀行、郵便局、西京区役所洛西支所や図害館などが入る総合庁舍が集中し、生活に便利なものが集約するよう計画されているのだ。

(図表オリジナル)

ニュータウンについての専門的な知識の乏しい私がコラムを書くにはどうしたものかと思い、ひとまず洛西ニュータウン内をくまなく歩いてみることにした。締め切りが近づいていたので訪問日を決め打ちで向かったら、あいにく春一番、しかも前日に足を痛め、片足を引きずりながら傘を差しながら、という街歩きには最悪のコンディションとなってしまった。だが、この最悪コンディションが思わぬ効を奏し、「計画された街」の良さを味わうこととなったのだった。

まず、タウンセンターにより要素が一箇所に集中しているため、必要以上に歩き回る必要がない。ただ、周辺には公園や緑道が広がっているので、「今日は調子が良くて歩きたい」という気分の時はめいっぱい散歩できる。テニスコートまである。それがポイント。

そして、1階はピロティになっていたり屋根のある歩道が多くて、雨に濡れることがない。

洛西ニュータウンへ行くには、公共交通機関を利用するとバスになるが、最寄り駅は桂駅や桂川駅など複数ある。私は京都駅から一本の「桂川」駅をよく利用するのだが、桂川駅といえば「イオンモール京都桂川」直結の駅。イオンモールはご存知の通りショッピングセンターで、スーパーに飲食店街、服屋さんに映画館と何でも揃っていて、家族連れが一日中時間をつぶしていられる。イオンモールの周りには、車のディーラー店が3つも並び、駅前の最近開発されたマンションや、大通りを挟むと古くからある戸建住宅も見える。ひとつの大きな街のようである。このイオンモールとその周辺の状況って、まるで「現代版ニュータウン」と言えるのではないかと。

しかし構成要素が似ているからと言って、正直言って私は洛西ニュータウン(以下、現代版との比較のため、本家ニュータウンとする)には住めるけど、現代版ニュータウン(イオンモール周辺)には住みたいとは思えない。何がそう思わせるのか。

専門的な話は他に譲るとして、今回は、現代人としてニュータウンがどう映っているか、洛西ニュータウンを事例に考えてみようと思う。それも、洛西ニュータウン近距離のイオンモール(以下現代版ニュータウン)と比較することで、ニュータウンの魅力が見えてくるものがあるのでは、と仮説を立てた。


(図表オリジナル)

1.本家ニュータウンは「ほどほど」、現代版ニュータウンは「過ぎる」

本家ニュータウンの代表例では、歩いている人の量も平日休日大差はなく、お年寄りもファミリーも年代は幅広く、高島屋にもバスターミナルにも、戸建群の緑道にも、常にほどほど人がいる。店の数も種類もほどほど、公園や緑もほどほど。時間があれば永遠に歩いていたくなる。

それに対して、現代版ニュータウンは「過ぎる」。何がかというと、スタバは行列で混みすぎる、土日にお客さんが集中しすぎる、車の販売店が多すぎる…とにかく過ぎる。そして、目的なくウィンドウショッピングをしてアイスを食べてソファでダベる、には最高なのだが、それ以上の楽しみをもつのが難しい。それは、常に自分がお客さん、消費活動をしに行くにすぎないからだといえる。「娯楽」という表現がふさわしい。

街に余白があるか否か、という違いは思いのほか大きい。

 2.本家ニュータウンは「ちょっとお高い」、現代版ニュータウンは「とことん安く」

お店で売れている物はその街の属性を表す。現代版ニュータウンでは、スーパーに日用品、パン屋は安さのギリギリの値段を攻めている。本屋の目立つところには、ジャニーズのカレンダー、「簡単お弁当」、「インスタ映え」の文字が並ぶ。

対して本家ニュータウンは、新鮮で珍しい種類の花も置いてある花屋さんが2店舗もあり、マダムの洋服店はいかにも品が良くてやや値が張る。中心市街地と同じ店も、O珈琲は市街地の店舗より80円ほど高いし、Nトリのウィンドウもライムグリーンとグレーで彩られ、他店より洗練された装いだ。そういえば、歩いているお年寄りは上品な方が多く、フードコートでは両手を添えてハンバーガーを食す。

ちょっとお高いというのは必ずしも悪いわけではない。街は森を切り拓きつくられたので既存住民はおらず、同時期に入居し老いていくというニュータウンの特性上、新規入居者も少ない構造にある(URの場合、収入格差も少ないだろう。その皆一斉スタートという既成事実が安心・安全感を生み、なんとも平和な空気をつくりだす。

3.本家ニュータウンは会話の相手が「お店の人」、現代版ニュータウンは「同行者」

「新居祝いに持っていくには、どんなお花がいいかしら?」「今日はおばあさんにお饅頭持って行こうと思って」。本家ニュータウンにはファミリーだけでなく、高齢者夫婦や一人の買い物客もわりといて、お店の人とお客さんの会話が目立つ。月に1回の朝市では、大原野の野菜や手作りの焼菓子が売られ、大変多くの人で賑わう。きちんとした商品を買いたいというのもあるとは思うが、双方に時間・経済ともゆとりがあるからだといえる。

対して、現代版ニュータウンは、ベビーカーをひいた夫婦や家族連れ、家族三代で、などとにかくファミリー層が目立つ。そして、お店の人や別のお客さんと話している姿をほとんど見ない。向いている方向は自分の家族、他者との対話が無く、簡潔な世界なのだ。何が悪いと言われると難しいが、これだけの人がいるのに対話が無いのは少し怖い。

社会デザイン研究者の三浦展氏は、著書『第四の消費』(朝日新聞出版)のなかで、

『第三の消費社会まではモノの消費が中心だったが、第四の消費社会が発展していくにつれて、消費は単なるものの消費から本格的な人間的サービスの消費へと変わっていくことはまちがいない。しかしそれは、単に金銭を払うことで一方的にサービスを受け取るのではない。消費を通じてもっと人間的な関係を求める人々が増えていくであろうと予測されるのだ。』と述べている。

ここでいうところの 「人間的な関係」が本家ニュータウンには存在しているように、私には思う。本家ニュータウンの方が建設された時代はもちろん古いのだが、時代遅れのようでいて実は現代的で、今を生きる私たちが見習うべきものが在るのではないだろうか。

(文・岸本千佳 写真・もろこし)


京都・洛西で進展する団地再生は全3回連載です。
こちらもお読みください。
京都・洛西で進展する団地再生 vol.1

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