懐かしい香り、懐かしい風景。あなたが子供の頃、学校から帰り家のドアを開けた時、どんな香りがあなたを包み、目の前にはどんな風景が広がっていたでしょうか。
デザイナーとしても活動しながら、京都・岡崎エリアで喫茶店を営むラ・ヴァチュール店主の若林麻耶さんは、「店でおばあちゃんがりんごを剥いて、タルトタタンを作っている風景」と振り返ります。
タルトタタンとはリンゴとバター、砂糖で作られるフランスの焼き菓子。19世紀後半、フランス・ソローニュ地方ラモット・ボーヴロンにあるステファニーとカロリーヌのタタン姉妹が経営する「ホテルタタン」で生まれたとされています。
”ある日リンゴのタルトを作り始めたタタン姉妹、しかしリンゴを炒めすぎて焦がしてしまいました。姉妹は失敗をなんとか取り返そうと、リンゴの上にタルト生地を被せてオーブンへ。
生地が焼き上がったフライパンの中身をひっくり返すと……そこにはとてもおいしそうなタルトが出来ていました。”
こうして生まれたのが、タルトタタン。”失敗から生まれたタルト”としても有名です。
フランスに認められたおばあちゃんのタルトタタン
「ラ・ヴァチュール」は1971年、京都・岡崎に誕生しました。
若林さんの祖母であり、初代オーナーの松永ユリさんは1918年奄美大島で生まれ。父親の仕事の都合で台湾に移住した後、小学校の教師をしていましたが終戦に伴い日本へ帰国。叔父を頼って京都の美術学校に通うなか、現代美術に魅力を感じたユリさんは卒業後、祇園で画廊をはじめました。
さらに新しいこと好きなユリさんは、フランス料理に興味を持ちます。1971年画廊の移転に伴い、隣にフランス料理店「ラ・ヴァチュール」を夫の辰夫さんと共にオープン。ユリさんが53歳の時の出来事でした。
その後ユリさんはフランスへ行き、タルトタタンと運命の出会いを果たします。「フランスで食べたタタンの味が忘れられない!」と店で出し始めたところ評判に。やがて看板メニューとなりました。
おいしくて、そして美しいタルトタタンを作りたい!
そんな情熱からユリさんは、タルトタタン作りに没頭します。追求するあまり1979年フランス料理の提供を辞め、喫茶営業のみに。
時期や状態によって毎回作り方を工夫しなければならないタルトタタンは、レシピはあるものの経験や感覚が味に大きく影響するお菓子です。その繊細なお菓子をいつもおいしく、美しく仕上げるためにユリさんは来る日も来る日もタルトタタンを作り、試行錯誤を続けました。
しかし年齢とともに、体もついていかなくなっていきます。そんなある日、タルトタタンの伝統的な作り方を守るため発足したフランスの「タルトタタン愛好家協会」から祭に参加しないかと、思いがけない連絡が。
ユリさんは、タルトタタンの生まれた街ラモット・ボーヴロンへ。そして「タルトタタン愛好家協会」の一員になります。2005年、87歳になった年でした。
おばあちゃんがいない風景
ユリさんの孫娘である麻耶さんがお店を継いだのは、2006年のこと。美術系の大学を卒業したと同時でした。
子供の頃から、店に帰るとりんごとバターの香りの中でおばあちゃんとおじいちゃんがりんごを剥いていて。一緒に手伝ったり、お客さんとお話したりするのが日常でした。私に継ぐという感覚はないし、きっとおばあちゃんにもなかったと思います。
その時から店を継ぐ流れが生まれたとおもいます。
病気で入院したときでもこっそり抜け出して、タルトタタンを作りに帰って来ていたこともあるほど、タルトタタン作りに情熱を傾けたユリさん。そんなユリさんが抜けた店を見た時、麻耶さんは、「このまま店を終わらせたくない」と強く思ったそうです。
麻耶さんは、お店の掃除し、外観をペンキで塗り替え、使われずにしまわれていたアンティークの家具やスピーカーを出して、店を蘇らせていきました。
この一週間の手伝いをきっかけに、東京へ戻った後も麻耶さんの心にはラ・ヴァチュールの存在が深く刻まれました。そしていつしか「店を継ぎたい」という思いが生まれていきます。
麻耶さんは、意を決して両親に伝えました。しかしデザインの仕事をしてほしいと思っていたお父さんは猛反対。何度も大喧嘩をしたそうです。それでも麻耶さんの決意は固く、卒業と同時に京都へ。ユリさんとともにお店に立つ日々が始まりました。
おばあちゃんがやりたかったことを実現したい
ユリさんとタルトタタンを作った日々を振り返り、麻耶さんはこう振り返ります。
おばあちゃんにとって自分を表現する先が、タルトタタンだったのだと思います。味、美しさ、完璧を求めても簡単には作れない。理想を目指して考える楽しさは、お菓子を作るというよりも作品を作る感覚に近かったんじゃないかな。
ユリさんと麻耶さんが一緒に過ごした8年間、やりたいことを改めて語り合うことはなかったそう。しかし毎日の積み重ねは、着実にユリさんと麻耶さんの絆を強くしていきました。
店を継いだというよりも、おばあちゃんがやりたかったであろうことを継いでやっている感じです。かつておばあちゃんが理想のタルトタタンを目指したように、私も味と美しさを兼ね備えた完璧なタルトタタンを目指しています。
季節によって異なるリンゴの水分量。だからレシピがあっても、同じような見た目や味にならないところがタルトタタンを作る難しさであり、おもしろさのようです。
2014年、96歳でユリさんが亡くなりました。理想のタルトタタンに近づくため、麻耶さんは日々自問自答し、自分なりの答えを見つけています。
タルトタタンから広がるりんごへの思い
目指すタルトタタンに向けて、課題の中心となるのは「りんご」。りんごの仕入れを見直す中で麻耶さんはたくさんの方と出会い、自分達ができることを模索しています。
タルトタタンに合うりんごを探すうちに、青森県の弘前に辿り着きました。現地の方と関わる中で後継者がいないこと、りんごを食べる人が少なくなっていること、市場に出ないりんごがたくさんあることなど、りんごにまつわる課題を知りました。
タルトタタンを通じて、りんごにまつわる課題を解決することはできないだろうか?
いつしか麻耶さんの前には、今まで気付かなかった広い世界が広がっていました。
甘くて大きくてキレイなりんご。酸っぱくて小さくて傷があるのも同じりんご。昔はきっと酸っぱすぎるからタルトやジャムにしたり、痛んだりんごからシードルが生まれたりしました。甘くて大きくてキレイじゃないからできたおいしい物もたくさんあると思うんです。
弘前にはハウスワイン・シードル特区があり、りんごを有効活用してシードルを作る農家や企業も増えています。今までの考え方をシフトしていくことで、少しずつ動いていくと思っています。
麻耶さんは、タルトタタンのようにりんごを使うお菓子やシードルのためのりんごの需要が増える事で品種や育て方の見直しに繫がり、後継者不足や生産者の負担を減らす力になると考えています。
現在、農家さんに協力してもらいながら多様な品種でタルトタタンを作るほか、かつてフランスでタルトタタンに使われていた品種のりんごも栽培できないかと模索しているのだとか。
そんな未来を見据えながら少しずつ、ラ・ヴァチュールは進んでいます。
見えた風景、出会えた人
タルトタタンという一つのお菓子から広がりつづける世界。それは「継いだからこそ見えた風景」と麻耶さんは言います。
子どもの頃から店にいましたが、りんごにまつわる風景は見えていませんでした。でも自分が継いで一歩でも進むと、自ずと課題は見えてきたんです。
継ぐということは、先代がもうできない状況にあるということ。きっと先代がやりたかったであろう何かが残っていて、それは継いだ人なら自然に見えてくるんだと思います。
さらに「継いだことで見えた風景があったように、継いだから出会えた人がいる」と麻耶さんは続けます。
すべては縁で動いていると思うんです。おばあちゃんが居たから店に来てくれた人もいるけれど、私が継いだことで出会った人もいる。それらがあってラ・ヴァチュールは続いています。
なにか課題が出てくるから先に進めるというのもあるし、進む中で人に助けられることがある。そんな大きな流れの中で、縁を大切に進んでいきたいですね。
タルトタタンというたった一つのお菓子から広がる、壮大な世界。これから麻耶さんの目にはどんな風景が映り、そこに何を描いていくのでしょうか。タルトタタンとりんごの関係を麻耶さん達がどのように表現していくのか、これからが楽しみです。