2016.05.05

人を巡る02Uターンして八百屋のセガレに。西喜商店 4代目店主 近藤貴馬さん

梅小路公園を南に仰ぎ、七条通りを西へ。まもなくすると左手に見えてくる八百屋さんが、西喜商店です。

「本当に美味しい野菜しか置かない。」と話す4代目店主の近藤貴馬さんは、
2015年5月、東京からUターンし、家業の八百屋を継ぎました。

京都から東京へ、そして再び京都に。
近藤さんの移住のきっかけや、移り住んで感じる生活の変化について迫ります。


 一度東京に出て、再び京都へ戻ってくるという選択をされていますが、その間にはどんなことがあったのでしょうか。

京都に再び戻ってくるまでに、株式会社セガに6年、株式会社地元カンパニーを2年経験しています。東京には、合計8年いました。京都へ戻ろうと思ったのは前々職の4年目で、26歳の時。そこから転職を経て、実際に戻ってきたのは31歳の時なので、丸5年かかりましたね。

移住に至るまでは色々なことがありましたが、京都で実家の八百屋を継ぎたいと思い帰ってきました。その理由はとても複雑なのですが、大きくは3つあります。

1つ目は、地方で働く素敵な人たちに沢山出会っていたことです。

学生の頃、鳥取県の智頭町中島集落で企画した農村体験イベントを通して、NPO法人学生人材バンクの中川玄洋さんと出会いました。玄洋さんは鳥取大学進学の為に静岡から鳥取へ居を移した後、学生人材バンクを立ち上げた方で、鳥取県内外を駆け回って学生と地域を結ぶ人材ネットワークを構築し、地域の人から厚い信頼を得ていました。僕が就活をしていた頃は、地域活性を軸に仕事にしている人はまだ少なくて、すぐにその分野の仕事に就くことはなかなかイメージできませんでした。

でも、玄洋さんのように地域で頑張っている人たちとの出会いをきっかけに、「自分は今、誰に価値を届けているんだろう?」と自分自身に問いかけるようになって。いつからか「目に見える人へ価値を提供しながら、地域を元気にするような生き方がしたい」という想いが強くなっていきました。

2つ目は、前々職のセガ時代に、会社員という働き方に対して疑問と不安を持ち始めたこと。

元々、セガが大規模施設のプロジェクトを始めるということを耳にして、それに関わりたいと思い入社を決めたのですが、肝心のプロジェクトが現場研修中に頓挫してしまったんです。

時期を同じくしてリーマンショックが起こって、会社が希望退職を募るようになり、尊敬する先輩方が次々に辞めていきました。企業に勤めていると、こういう自分の力じゃどうにもならないようなことが、結構あるんですよね。尊敬する人がいるということもその会社を選んだ理由の1つだったので、目指す先輩がいなくなったことはショックが大きかったです。

入社2年目の秋転職斡旋に行ってみるも、リーマンショックの影響で求人がなく、転職もできず。次第に、「このまま会社員を続けていても、自分の人生や生活をコントロールしきれず、責任を持ちきれないのでは?」という漠然とした不安を持つようになりました。やりたいこともできないまま、人生の主導権を会社に受け渡している暮らしは、健康的ではないなって。

一方では地域で働いている人たちが頑張って地域を良くしているのに、自分は東京で誰に何を届けているのか分からなくて、もやもやした日々を送っていましたね。

3つ目は、セガでの営業経験です。

先のプロジェクトが頓挫したため、その後は様々なお仕事をさせていただいていたのですが、最後の3年はゴルフ練習用機器の営業をしていました。施設の企画がやりたかったこともあり、初めは正直気が進まない仕事でしたが、テレアポや飛び込み営業など、泥臭い仕事を愚直にやっていく中で、できることが増えていき、営業マンとしての自信もついていって。その時にふと、実家の八百屋のことを考えたんです。

実家は元々、大正時代から小売を始めたものの、祖父の他界後はJRAの栗東トレーニングセンターに飼料用の人参などの青果を卸すことを専門にしていました。販路を拡大していく際には営業が必要です。それならば、自分が培った営業力は八百屋業でも活かせるのではないか、と思うようになりました。

【最終版】ヒトをめぐる02-近藤貴馬様.pdf - Adobe Acrobat Pro


 八百屋を継ぐことは、東京に行く前から考えていたのでしょうか?

営業の経験をするまでは、八百屋を継ぐということは、全く考えていませんでした。将来京都に帰ろうということさえも、考えたことはありませんでしたね。
でも、自分の力を八百屋に活かせるかもしれないと思ったとき、「これが自分がすべきことであり、したいことだ。」と不意に腑に落ちたんです。その時に、移住を決断しました。

それ以降、移住を辞めようかと迷ったことはなかったです。でも、両親、特に親父とは揉めました。
「個人商店なんて、休めないし苦労も多い仕事、息子にはやらせたくない」という親心があったそうです。説得するのは大変で、他にもいろいろな経緯がありましたが、結婚を機に許してくれました。

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 実際に京都に戻ってきて、どんな変化がありましたか?

移住してきてから半年程経つのですが、本当に変化だらけの半年間でした。僕が住んでいる家は、元々祖父母が住んでいた120年の古民家で、まずはそこをリノベーションすることから始めました。基本的にはリノベーションを専門にする業者にお願いしましたが、自分で床を塗ったり、ウッドデッキを作ったり、自分の住む家は自分の手でつくれるところはつくろうと、DIYに取り組みました。

最初は移住後の住まいとして、亡くなった祖父母の家のリノベーションを行いました。移住後一ヶ月程は、DIYにも取り組んだので、大工みたいな生活を送っていたんですよ。笑

大工仕事が一段落してその後は店舗の内装に着手しました。店舗の方は、祖父が亡くなってから店を閉めていたため、長い間使っていなかったんです。すすだらけの壁を塗り替えたり、照明を付け替えたり。これもまた1か月程、手作業で家の改装をしました。

そこから、親父の仕事について回り、八百屋としての仕事の仕方を学んで。お盆の時期にお店を開けてからは、お店を軌道にのせるため、とにかく奔走していました。

子供を持ったことから起こった変化も大きかったですね。子供が生まれて、一番大切なものが家族になったんです。子供が生まれたのは東京で働いているときだったのですが、家族と過ごす時間を本当に大切にしたいと思うようになり、それが働き方を見直す大きなきっかけにもなりました。

子供をひとり育てるというのは、想像以上に大変なもの。だからこそ子供との時間は大事にしたいと思っています。八百屋という職業上、朝は6時から7時に出勤せねばならずなかなか一緒には過ごせませんが、夜は必ず晩御飯までには帰って子供や妻と食卓を囲むようにしています。家族と一緒に晩御飯を食べる時間は、自分にとっては欠かせない時間。一生大切にしていきたいですね。

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 今後の抱負についてお聞かせ下さい。

今は店舗に付きっ切りなのですが、徐々に店舗は人に任せて、卸の販路を拡大すべく営業に力を入れていきたいと思っています。家族で生きていくため販路を拡大し、卸もどんどんやっていきたいです。

それから、京都という街への還元も大切にしたいと思っています。その一環として、最近、京都移住計画の活動に関わり始めました。京都を楽しくしていきたいと思っている移住計画の人たちとなら、面白いことができそうだ、という単純な想いがきっかけでした。

多くの地域は、30代40代の人たちがガンガンリスクを背負って、「地方を良くしていきたい。」との想いで起業し、開拓してきたからこそ盛り上がっています。ですが、その後を追う世代はまだまだ芽が出たばかりです。

でも、京都には京都移住計画がある。京都内外のいろんな人たちを巻き込んで、僕たちの世代から、京都の街を一緒に楽しく盛り上げていきたいですね。

かといって肩肘を張らず、力みすぎず、自分らしく自然体で暮らしていきたいと思っています。

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◆取材後記
今回は、ライターインターンとして初めてのインタビューでした。気さくな一面をお持ちでありながら、家族を守る覚悟を背負った父親であることを感じさせる、ピンと張り詰めた雰囲気がとても印象的でした。

店舗には、新鮮で美味しそうな野菜が並んでおり、取材の間も、若い人からご年配の方まで幅広い年齢層のお客さんがいらっしゃっていました。頂いたりんごは甘くみずみずしかったです。
Facebookにも、たくさん情報が上がっていますので、ぜひ下記リンクよりご覧ください。

◆リンク
Facebook 西喜商店:https://www.facebook.com/nishikisyouten/

執筆・写真:大西芽衣
編集: 飯島千咲

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